2016年02月06日

子|大人


 - りっぱな大人になれないでいる、かといって子のままでもいられない -

 はじめに。本作は
 おがちょこさんの「女子力への努力」という作品をみておもいつきました。
 作品のcore…血をひきついでいる(かもしれない)と言及しておきます。
(本人は なんのこっちゃ分からない かも知れませんが)

 昨日は女。今日は子。つまり女子! いえ、なんでもありません。

conan.png

「子|大人」のしんどう作品です。いや、
「大人|子」の神童作品かも知れません。どちらがメーンなのでしょうか。
 たとえば「大人っぽい子」と言えば「子」がメーンの様な気がいたしますが、
 しかしながら「子(ども)みたいな大人」と言えば
 いちおう大人(メーン)な気がしてまいります。
 これを「メーンになりきれない大人子(おとこ)」とでも言うと
 もうメーン(漢)なのかメーン(本体)なのか分かりませんねと。
 もー一体どちらが真実なのでしょうか。
「どちらもが一体となる」のが真実でしょうか。
 真実はいつも1つなのでしょうか(伏線)。
 いつもついつい対(2つ)なのでしょうか(いつもつい やる くせ)。
 ともあれここには
「およソ(やく)大人な子」も いますし「子なん?と うたがう大人」もいます。
 しんどうが いっちしてしまい もはや一体全体、
 あえてよぶなら本作は「しんどういっち作品」でしょうか、略して(略)。
 ソの しんいっちは たしかに(子なん?)大人ですから頼もしいですが、
「子なん?」が「いつまでも子(ども)っぽさが ぬけぬ大人」な ぶんみゃくなら
 頼りなく、もはや あべこべというか、いや はなから あべこべなんですが
 なにを言いたいのかもよく分からなくなり、もはや全体一体で分かりませんが、
 本作の「大人な子」を どうよんで真実とするかは、もう けっきょく努力しだいで
「大人っぽい子」でも「子(ども)じみた大人」でも
「大人になりたい子」でも「子なん?な大人」でも
 ソコソコなんとでも よべる様な気も するのです。

 では、こんどは すこしは分かる はなしをします。
 本作は「子」にせよ「大人」にせよ
 よみにくくて、むりが有りますよね。いびつです。
 しかし、おもいうかべてみてください、
 早く「大人」になりたくて、せのびをする「子」というのは
 やはり大体むりをしていて、いびつなものですよね。

(一点目!)
 あべこべに、もういいとしなのに いまだに「子」が ぬけきらぬ
 いわば なり損ないの「大人」も これまた、いびつです。
 ソうです、きっと本作の文字の様にいびつです。
(二点目!)
 これらの「むりをしている いびつな すがた」こソが
 かれらの ソして本作の 真実なのです。
(ハッと(するかもしれない)とりっく!)
 …などと、作品の出来のわるさを(作中の)人のせいにしてはいけません。
 作品の文字が いびつでよめない のは
「せのびをする子」や「ようちな大人」という彼らがはらむ
 いびつな もんだいのせいなどではなく、作りての 力ぶソくのせいです。
 当たり前ですが。しかし、この
「作品の出来のわるさを作中の人に押し付けてしまう」ことこソが
 とてもズるいkawaharAmbらしいズるい工夫なのです。吠えー。
 でも本作は、はじめに言ったように
 おがちょこさんの「女子力への努力」という作品をみたのがきっかけです。
「努力」が「女子力」をめざして努力している(様にみえる)のをみて
 なるほど と おもったのです。なので ズるいのは おがちょこさんです。
「B|A」のしんどう作品において、
 BがAをめざしてどりょくする、がんばる、むちゃする、せのびをする、
 ちかづけてみせようとする、というのは
 たぶん あたらしい工夫なんじゃあないか?と かんしんしました。
 BがAをめざす血のにじむ様な努力を、まず作りてが作る上でじっかんして、
 ソれを よみても かんじざるをえないわけです。「子(供)|大人」なら、
 苦しくても、せのびをして大人にならんとする子(供)のひっしさや
 どうしても子(供)がぬけきらない大人のいびつさをかんじるのです。
 えー?ソうかなあ、よみては単に「字が いびつで よみづらい」とかんじるだけ
 なのでは…? りソうをかかげても げんじつは きびしいですよね。
 あっ、ていうかこの「げんじつ|りソう」とかでも作りたいとおもったんですよ。
 うまいぐあいにむりやり(どっちだ)つなげてきましたね。
「月並|美人」でやってもいいかな、ともおもいました。
 つまりこれは「子|大人」にかぎらず、しんどう作品において
「なりソコない」や「はってんとじょう」や「どっちつかず」に
「いみ」をもたせる工夫なのです。
(おがちょこさんがソうおもっているかは知りませんが)
 たとえば「りソう|げんじつ」というしんどう作品を作ったとします。
 これがもし
 とうてい「りソう」にも「げんじつ」にも よめない しロものであっても、
「りソう には とどかない。げんじつ は きびしい」
 とかなんとか言えばよかロうなのです。あるいは
「りソうにむけ努力はしている(とどくとは言っていない)。
 実際には げん状の維持すら おぼつかない」などと。とんで月並美人であれば
「月並だが、美人になりたい」と 作っては みたものの
「やはり美人には なれないし、月並すら あやしいもんだ」などと。ひどい。
 あ いや、これは かおが月並なのか、
 ソうじゃなくて「美しくなりたい」という ぼやき自体が 月並なのか、
 あくまでソのへんが あやしいもんだ ということです(なぜか言い訳しだす)。
 ともあれ美人なら みかえりがほしい、と ふりかえってみれば
「りっぱな大人になれないでいる。かといって 子のままでも いられない」と
 はじまりの いっせつに つながるわけです。
 これが作品の中枢であり、これがcoreです。(nEntryぶり m回目)
 うー なるほど!って うなるほど よかったねって、いや なげーよ!

 さて、昨日のと今日のは、つまり姉妹作なのですが、
 女から子を作ったのではなく
 子から女を作りました。などと言うと びみょうな にゅあんすになりますが
 ようするに(今日)子が姉で女が妹です。
 子を作ってから「これ女にもみえるなあ」ということで
 女も作った、ということです。どうにも言い回しがあれですね。すみません。

 本作も さむねいるなどのちいさな画だと まんま「子」にみえ、
 これが大きくなると「大人」にみえ…たらいいなあとおもいました。
 実際は、ちいさくとも大きくとも どっちにも みえません。
「大きくなる」というのは、つまり
「大人になる」こと とは かぎらないからでしょう。はあ。

 とこロで、本作がもし いびつにならずに「子」も「大人」も よみやすく
 とてもうまく出来ていれば ズるい工夫をこんなにも りきせつして
 ひねり出すこともなかったかも知れません。
 作品は出来がよいに こした事は有りませんが 今回の様に
「出来のわるい作品をどうまるめこんでみせるか」も
 ひとつの おもしロい工夫だと おもいます。
 ひねり出せてよかったです。
posted by kawahar at 00:36| Comment(0) | TrackBack(0) | kawaharAmb | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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